今日はたのしいひな祭り🎎

先月の節分(恵方巻き)に続いて、食品売り場のPR合戦は、ひな祭りのちらし寿司なのだろうか。子どもの頃無邪気に歌っていた「ごぉにんばやぁしに笛太鼓ぉ、今日は楽しい雛祭り」の歌詞に出てくるような段飾りのお雛様を飾るスペースがないし、いちいち五人囃子や女官たちのお人形さんを箱から出して飾るなんて時間の余裕もなくなって、主流はお代理様とお雛様のみの段のないお飾りという流れになって久しい。ウチは、そもそも裕福でもなかったから、段飾りなんてお友だちの家で見てへぇ、というくらいで、青色の靴下に水色のパジャマが定番だった女の子っぽくないわたしにはさほどの関心がないから、うらやましいとも思っていなかった。
ひな祭りといえば、思い出すのが、通っていた保育園のおゆうぎで、卵の殻に穴を開け、中身を取り出して乾燥させ、何色かの色紙の着物を着せた小さなお雛様を手づくりしたこと。もちろん、中身を出すのは自分ではなくて母の手仕事だったのだろが、ソレが妙に気に入ってしまい、ひな祭りの本番が済んでも、何度かおねだりしたのを覚えている。わたしは子育てをしたことがないから、生卵を何度も吸い出すような目に遭ったことがないから、思い出すたびに申し訳ない気がする。母の愛とはそういうものなのだろう。田舎育ちの母は、裕福でない家計の中でも、季節の行事は欠かさなかった。行事といっても主には食にまつわるもので、この季節には、ヒト様の田んぼのアゼで芹を摘んできたり、庭の日陰で雪の下を獲ったりしては食卓に上っていた。たまに、山を所有しているご近所さんから、堀立ての竹の子をいただいたときには、関門海峡で獲れたという和布(ワカメ)と一緒に煮物やお吸い物になったのを覚えている。それだから、後年、子育てはしないが、ヒト様に薬膳のレクチャーをするようになって、直伝で教わりはしなかったものでも、母ならこうしていたろうか、と想像すればはじめて扱う食材でも何とかなるという…学校から戻ると専業主婦の母はいつも狭い台所にいて、夕飯の支度で向こうを向いていて、背中越しに会話したのを思い出す。

いつだったか、母の介護をするようになったはじめの頃、検査で入院している母を自宅から1時間半かかる大学病院に見舞った際、かしわもちを自作したら、腕を上げたね、バトンタッチだね、と追っかけメールがきた。それから少しして、母の大定番の茶碗蒸しにもお墨付きが出て、我が家の主婦の座は完全にわたしが掌握した。それがどうだろう。今年の正月は、いくらか体調を崩していたから、生まれてはじめて冷凍宅配のミニおせちを注文することになった。もしも、寝込んで手づくりできなかったらどうしよう、と危惧されたから。それもけっきょくは杞憂に終わり、黒豆、かずのこ、マナス、栗きんとん、煮染め、焼き車海老の主要6品は無事に食卓に並んだが、へぇ、世間のひとは、こんなものに何万円もかけて正月を迎えるのか、と学習にはなった。Amazonのミニおせちは、すでに割引きされていて、怖いもの見たさとしては許される金額に思われたが、中身を見て、食べてみて、これが正月でなければ割引価格のさらに1/2が妥当だろうと推察された。
GW、夏休み、年末年始のハイシーズンにわざわざ出かけることはないし、休前日にホテルをとることもない生活をしているから、ついいつもの調子でセコいことを考える。きょうび育ち盛りのお子さんを抱えるお母さんは大変だろうナ。

三つ子の魂百まで、だから幼い頃に習慣的に食卓に上がらなかった食材は、大人になっても基本的には食べないことが多い。ウチは、カリフラワーを食べたことがなかったから、おや?これはどう茹でるのだろうか、と首を傾げた。今では、ちょっとググれば調理法は誰かが記事をアップしてくれているが、益々、自分で考えないし、古いしきたりが伝承されることもなく埋もれてしまうような世の中が加速する。
そのうち、お代理様って何のこと、と聞かれそうだ。

伝統の掘り起こし

大寒卵に恵方巻

今風な具の恵方巻(イメージ)

木枯らしが吹くいちばん寒い季節。春とはいうが冬真っ只中…
いわゆる恵方巻なる食べものは、関西を中心に局地的に食されていた地方の風物詩だったものが、ここ15年くらいは、ものすごい勢いで全国区に躍りでた。それに続いて、この数年は、大寒の朝に生まれた、その名も大寒たまごなるものが、にわかにブームの兆しを見せているようだ。今後、インフレが進んで常態化してしまえば、恵方巻きほどの地位も奪取できずに消えてしまうのかも知れない。その昔、物価の優等生といわれた卵も鶏感染症の影響もあってこのところ値上がりを続けているが、それと比較しても大寒たまごは驚くほど破格に高い。卵10ケで2,000円〜というから縁起もの以外の何者でもない。

この時期、新酒(日本酒)もそうだが、日本人は、生まれたての、真新しい、新品ピカピカの、誰も手をつけていない、というような形容を好むから、中身はきのうも明日も同じ鶏が生む卵でも意味合いがちがう。もちろん、平時でなければ、そんなことを悦んだり貴重品扱いしたりはしまい。ウチの亡母が第二次大戦の終戦を迎えたのは小学一年生の夏だが、九州の田舎育ちだったから、戦時中でも白米を食べていて、おまけに祖父は大工の棟梁だったから、棟上げに供される大きな鯛に飽き飽きてしまい、数十年後、70、80の祝いの席でも鯛を好んで食べることはなかったくらいに、食には恵まれたひとだった。

母は田舎料理の味つけが上手で、親戚や近所の友らと会食を交える集会所のようになっていた。たまに手伝いをすると、酢のものの酢量を自分に合わせずに手加減しなさいとクギを刺されたものだった。今は、その辺にある具材で、おひとり様の、焼き海苔を1/2にカットした分量の巻き寿司しかつくらないので、寿司酢は手づくりしないで、昔馴染みのメーカーの粉末を使っている。たったの1.5合の炊き立ての銀シャリを半分ずつに分けて、こっちは酢飯、こっちは夜のご飯という具合に、一回で二度おいしい炊飯システムになっている。今はもう廃業したが、それこそ10年前までは、叔母夫婦が寿司屋を営んでいて、その歴史のおしまいには、恵方巻、(土用の丑の)鰻太巻きなどのシーズンものの張り紙をしていたのが記憶にある。節分は、朝から晩まで巻いて巻いて、仕事とはいえさぞかしうんざりしただろう。やはり、こういうものは、素人の手仕事でも、自宅で少ない量を巻くからいいのであって、いや、もう、そんなことはしないで、いきつけのスーパーで早期にご予約なさるのだろう。今は、一番摘みの有明海苔も不作で高騰していて、母が生きていた頃、ジャンジャン何枚でも消費していたのが嘘のようだ。我ながら焼き海苔を食べる機会が激減してしまったのは悲しい。よほどの好物でもない限り、こうして、自分だけなら、きょうは自粛しようと思ってしまう。かといっていきなり下位にすれば味の差は歴然だろうと思えばそれも躊躇されてしまう。幸いなことに、じゃぁ、恵方巻きもやめようとまでは思わないが、いつか体力が落ちたら、それすら嫌になるのかも知れないから、想像すると空恐ろしい。

ブームに敏感なのは若い世代で、それこそ、我が家だけそうではないというのに苦痛や問題を感じるから、売り手はそこに仕掛けようとする。年寄りは、行事食の日には財布を持たされてきたが、年金は目減りし、医療費の負担は増える一方になれば、不安は雪だるま式に増えるし、やがてはたまの外食すら許容できないレベルになるかも知れない。

モノが売れるのは、浮かれてはいられなくても、そこそこ、ふつうにしていられる世の中だからこそというのを忘れてはいけない。

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逆転の発想

津軽から世界に

吹雪の中を走る列車(イメージ)

極寒の雪国が逆転の発想でがんばっている。と、いってもそんなにたいそうなことを目指しているわけではなくて、たぶん、地域のPRにというレベルなのだろうが、その名も津軽演歌世界選手権、不釣り合いにデカ過ぎるネーミングが微笑ましい。この時期、酸ヶ湯温泉では積雪が3mを越えるし、五所川原では吹雪を味わうために都会からわざわざストーブ列車に乗り鉄がくるらしいが、津軽と聞くだけで、日本人なら誰でも吹雪や雪景色を思い浮かべる。津軽鉄道はたぶん最果てのローカル線なのだろうと。昭和の高度経済成長期生まれのわたしは、まっ先に〝津軽海峡冬景色〟を思い浮かべる。子どもの頃、意味もわからず、ただ聞き飽きたと感じていた演歌を、今はカラオケで歌ったりもする。
その、中の里駅では、世界中の誰でも(鉄道を利用してたどり着けば)参加できる歌のコンテストを催しているという。しかも、いちばん寒いこの時期に。寒い地方には寒い時期に、というひともいるが、津軽でなくてふつうに都会でも寒さに縮こまりそうな季節に、わざわざ訪れるには勇気がいる。しかし、こんなニュースを見れば、へぇ、行ってみたいなぁ、と素直に旅情も湧いてくる。ひとの感情は何をきっかけに動くかわからないし、いったん動けば即行動してしまうこともある。かくいうわたしも8K動画に釣られて、満開の桜吹雪を求めて数カ所のローカル線に乗った過去がある。花吹雪は満開から2日しか味わえないから、すぐに移動しなければ無理で、早くから準備万端予約していてもほとんど予想はハズレてしまう。

マーケティングの世界では、理屈は後付けという。したい、とか欲しいとか思わせればこっちのもので、たとえ衝動買いでも、理由なんて本人がいくらでもどうにだってしてくれる。今はこうして、自治体や町おこしの団体や個々人でもお金をかけずに画像や手記の配信ができ、それが思いのほか再生されて、仰天することもあるという。しかも、こんな田舎の片隅に? 日本人も知らない景色を求めてインバウンドが押し寄せる時代でもある。そういう意味では、資本が小さいものも、たいして、いや、ほどんどメジャーでなくとも、世界に知られるきっかけや可能性があるにはある。

昨年、11月~12月にかけて、グエー死んだンゴ、成仏してクレメンスのやりとりが、300,000,000回以上表示されて、ひとりの若者の逝去が、あちこちで、がん撲滅寄付につながる珍しい現象が話題をさらった。何かを狙ったわけではない。ご本人はもういないのだがら。しかし、彼が死を予期して配信予約をしたメッセージが世間を動かした。投稿が同世代だけでなく老若男女多くのひとの感情に訴えかけて、純粋な行動につながった。
思わずヒットした!という幸運にぜひ巡り会いたいとは誰でも思うが、ヤラセや狙って造り込みをするのはあまりいい印象は生まない。特に、日本人は、そのものを包む雰囲気や背景から浮かび上がる精神性のようなものをダイレクトに受けとる認識パターンをもつから、バレたら悪評に直結する。ひとの純粋性に訴えかけるなら、まず、自分たちの姿勢が問われる。そうでなければ釣り合いはとれない。

いくらか、ご愛嬌程度の誇張は許されるとしても、嘘はやめよう。

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2本のフレーム

いいものを長く使う

お婆ちゃんのメガネ?

去年が還暦だったので、30年以上振りに縁なしメガネを新調した。
実は未熟児網膜症で3歳からメガネをかけていて、これまでにあつらえたメガネ総数は20本は越えると思う。1つ前の30年ご愛用の品は、昭和天皇のメガネをおつくりしていたメーカーのもので、はじめてかけた縁なしのK18フレーム。でも、当時は、金1gは2,300円だった。約1/10じゃないか! それで、その後は、はじめての遠近両用もそのフレームに薄型レンズを使って問題なく過ごしていたのだが、長らくお世話になっていたメガネ屋さんがリタイヤしてしまい、そこそこの技術がないければいじれない繊細なフレームなために難民化してしまって、仕方なく、どうしてもなネジの調整が必要な折に、地元のデパートのメガネ屋にお世話になったのだが、無料でネジだけ閉めて、はこころ苦しいし、そのフレームのメーカーが今どうなっているかなども教えてもらい、ついでに鼈甲のフレームを見せてもらっていた。へぇ、今は、あのじじい臭い鼈甲のイメージではなく、軽くてデザイン性もあり、色のバリエーションまでつけてあるのかと感心した。しかし、さほど執着はないし、まぁ、次もネジ閉めだけてかまいませんよ、と仰るし、このまま、定期的にしばらくお世話になるしかないな、と考えていた。

それが、次のネジ閉めの時、来月、鼈甲フレームの展示会があります、とおっしゃる。へっ、鼈甲って…前回かけてみたあのメーカーのフレームを思い浮かべて、さて、48万円だったかな?と記憶を呼び起こした。そうかぁ、先日、ちょうど還暦になったばかりだし、厄落としに長いものか高価なものをあつらえなさいなんて聞いた気がする。そういえば、何も一括で支払うことはないのよね、と脳裏に浮かんだ。デパートの展示会なんだから金利手数料ゼロ分割なんかもあるのかな、と。そういう流れで、さして興味をそそられていたわけでもなかった鼈甲の縁なしメガネが一気に浮上した。

その後、つつがなく、一年が過ぎてめでたく分割払いも終了した。鼈甲といってもリム(耳にかける部分)だけだから、ひとめにはわからない。途中、親戚宅に滞在中、ネジが緩くなって別のメガネ屋さんで閉めてもらった際に、店長さんらしきひとから「すごいフレームをお使いなんですね」といわれたくらいで、外してテーブルに置いたとしても、素人目にはわからない。セルロイドと見分けはつかないし、そもそも、鼈甲をかけているなんて夢にも思わない、その必要性も感じてないだろう。

趣味のバイクや葉巻やワインなど、全面的に生活必需品ではないものの、高価なのに、いつでも一定の層がいて成り立つ商売がある。たまに、いいものをもっとリーズナブルに、といい出す後発メーカーが現れることはあるが、やはり、ダントツは老舗のメーカーで、ソレを使うからステータスとみなされる技術と素材から選べる優位性を実現してはばからない。

わたしは、残りの生涯で、フレームを新調することはもうないだろう。18金と鼈甲、メガネが必須なひとが最後に行き着くといわれる2TOPはコンプリートしたから。これで、ネジ閉めも気楽にお願いできるというもの、めでたしめでたし。それにしても…あの店長さんは、何ひとつ営業していない。親切にきちんと対応するのが商売の基本そのものの証左とはいえ。ま、タイミングや相性はあるが、それも実力のうち。途中でヤンやいっていたら、たぶん、難民に戻ってしまっていただろう。

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フランクシナトラ

歌い、語り継がれるもの

今どきの若いひとには、フランクシナトラがわからないかも知れない。いや、わたし自身もさほど詳しくはないが、まだ、昭和の終わり頃から平成にかけては、結婚披露宴や宴会のカラオケで〝My way〟が歌われることはあった。ずっと若い頃、夏以外でもボサノヴァをよく聴いていて、シナトラのアルバムもお気に入りのひとつだった。その後、だいぶ経ってから、別の女性シンガーのアルバムでもカバーされたが、それもCDが傷だらけになるくらい聴いたので、〝Bubbles,Bangles&Beads〟がオリジナルとミックスされて、まるで、デュエット曲のように脳裏で響いてくる。あの、ナタリーコールが亡き父と歌った名曲アンフォゲッタブルのように…

時を超え、アレンジを変えて歌い継がれる、JAZZやPOPSのスタンダードもあれば、バッハやヴィバルディのように何百年も前から変わらないクラシックもある。教科書で習って、数十年ぶりにでも聴けば思い出せるワンフレーズを口ずさめる学校唱歌もある。カノンで有名なパッフェルベルは、300だか3,000だかの作曲のうち、カノン奏法の曲は唯一アレだけだった、というのだから世の中は何が起こるかわからない。ショパンだって、わたしが〝救急車の歌〟と名づけた押し曲のひとつは、本人が、その作曲を悔いて、楽譜を燃やして欲しいと遺言で懇願するほどに嫌っていた曲らしい。そういう意味では、やはり、評価は他人様がするのが前提にはなる。

歌は世に連れといわれて、どの曲が流行るのかは予言できないし、時代の雰囲気や世相というものが無意識に反映されるのだろう。しかし、今では、AI生成の動画や画像も含めたコメントの投稿が、毎日数え切れないほどアップされて、まるで世論を誘導しようと画策している風にも見える。見る側がホントか嘘かを判断してビクビクしながら視聴するしかないなんてのはおかし過ぎる。それが現実なら、以前からサブリミナル効果を忍ばせていたなんてのも可能性は否定できなくなる。それだけ、真実とはズレたところで、いわゆるマーケティングが繰り広げられているのだろう。由々しきことじゃないか。オリジナルの意味とはいくらかニュアンスがちがうかも知れないが〝生き馬の目を抜く時代〟にはちがない。まいっちゃうね。

クラシックでも仏像でも絵画でも、長く遺されたものには、今なお作者の魂が込められているのか、何もわからない後世のひとでも、これは粗末にしてはいけないとこころに響くものがあるのではないか。そんなものを生み出すのはかなりハードルが高いが、少なくとも飽きずにふてくされずに誠心誠意努力することはできる。共振する買い手は、はじめは少数かも知れないが、外だけキレイに見せかけた過剰ラッピングのモノは、いずれ化けの皮は剥がれてしまうのだから、目先で、無駄なことをするのはやめよう。

Francis Albert 〝Frank ‘’Sinatra (1915-1998)
米国のポピュラー・ジャズ歌手
1953年には、映画「地上より永遠に」で、俳優として
アカデミー賞助演男優賞も受賞している。
その逝去に際して、エンパイヤステートビルディングが、
弔意を表すために彼の瞳と同じ青い照明を灯したほどの
長期に亘り活躍し続けた大御所たるエンターティナー。
〝Bubbles,Bangles&Beads〟は、1967年、ボサノヴァの
創設者、アントニオカルロスジョビンとの2TOPアルバム
に収録されている。

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見えないはたらき

化学じゃなくても物理はある!

株式会社ウエルネス「神聖」ステンレス製プレート

10年くらい、いや、ついこの間まで、周波数とか波動なんていえば、スピか!と怪しまれたものです。もちろん、今でも話す人は選びますが…ただ、数年前のノーベル物理学賞で、量子もつれーベルの不等式の破れが公知の事実に格上げされたことで、100年かかって見えないが確かにある現象の世界が可視化されるようになってきたのです。
わたしはベタベタの文系脳なので、何となく、イメージすることができるだけで、数式で理解すること能わずなので、多くを語ることはできない、説明として不適切この上ないのは自覚している。
しかし、目に見えるモノは、分子の集まりで、その分子を構成する原子の中の陽子や中性子や電子=素粒子という具合にどんどん単位を小さくしていけば、世の中のすべては、目には見えないエネルギーで成り立っているのは当たり前の事実なのだから。そうすると、見えないものしか信じられないというひとの方が、現実を知らないことにもなる。要はそのひとの解釈のちがいだから。

日本人は、虫の音を左脳で言語化できる、水色(色名)*単なるlight blueとしてではなく、を世界で唯一持つ民族として知られる。以心伝心などは海外のひとでもはたらくのだろうが、とりわけ、気配みたいなものを如実にふつうに感じるから、見えないものだってあるのが当然だったハズで、それが、西洋人が自然を科学しようとして、物質に特化して、分析して、やたらと証明しようとしたのに追従して、科学万能のように勘違いしてしまったからまったく宜しくない。論理的思考を見習うのはいいとして、それだけになってしまったら本末転倒でしかないだろう。

このプレートの雑誌広告のコピーを書いて、と頼まれて、うぅむと唸った。わたしは文系脳の上に、(気功)の氣もわからないし、神様の声も聞こえないので、眺めてみても六角形の模様の板にしか見えない…その上、こういう感じに、と社長から届いた手描きのイラストの文言がいただけない。全削除は申し訳ないので、雰囲気は残しつつ↑こうなった。まぁいい、スピ系の雑誌の掲載だから、わかるような分からないような「量子」「気のエネルギー」「神様」ってことで…

ものごとを説明する時、誰が主語で、誰を相手にするのかで表現はいくらかずつ変わる。この場合、100%がスピなら、もっとそれっぽくする方がいいだろうが、いや、そうすると、ふつうの感覚のみのひとが見た時、大丈夫かこの会社は?となりかねない。↑の広告には、左半分もあって、そちらの製品はスピそのものではないので、とりあえずは折衷案的に量子生活ってことで。

見えないものの背景にある、可視化はされないが、遍満してはたらいているエネルギーにわたしたち日本人は気づいている。それは、お天道様が見ているという昔ながらの素朴な表現が示すものと同じだから、無視したり粗末にしてはいけない。

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お時間のあるかつ興味のある方は、こちらも

そらの玉手箱(量子を語るよもやま話)


バナナと卵

物価を感じる時

バナナと卵

病人の食べる朝バナナを買いに近所のスーパーに行ったが、いつもは山と積まれているはずのものが何もなく、すっからかんとしていてびっくりした。これでもわりと用心深いので、もしものことを考えて、けさの、大き過ぎるサイズの🍌を半分に切って残したから、明日の朝まではセーフだが、どうしたのだろう、心配した。昭和2/3年代生まれのわたしが子どもの頃は、すでにバナナはありふれたくだもので、これが昔は高級品だっなんて聞かされてもふしぎでならなかった。今は、大きく分けると、有機栽培、高地栽培(高級)、ふつうになっているようで、確かに、高地とふつうではいくらか甘さがちがう気はするが、農薬を使っているのなら特筆するほどのことでもない。

首都のMcDonaldバーガー価格を物価比較の指標にしているのを見かけるが、人生で数回しか食したことがないからピンとこない。コーラも飲まないし…日本では長いこと卵は物価の優等生などと呼ばれて、1パック10個の卵が記憶に残るかなりの年月100円で、あるいは、チラシ目玉の特売なら50~78円なんて日もあった。それが、2025年には、いかにもふつうの白い卵が1パック250円以上になったのだから、物価高を如実に実感してしまう。まして、飲まない自販機のコーラは200円だそうだから、畏れいる。

アミノ酸価100での比較なら1パック250円でもまだ肉や魚よりはマシだが、米の高騰と同じで、いつもの価格でそこにあると思い込んでいたものが、いや、そうじゃありませんよ、と主張しはじめれば目を見張る。そして、何の変哲もないように見えていたふつうの生活が、ほんとうは、かなりありがたいものだった、円高だって知らずに享受していたのに気づいてしまう。ほんとうに、自発的にではなく瞬間啓示的に。
当然、原材料が高騰すれば、製品の価格も値上げか、中身を削るか、両方かという選択を迫られる。今はもう、ビッグサイズなどと無駄なくらい大きな包装袋に入れるのもあり得ないだろう。

いつの世でも、ほどよいサイズで適正価格が求められるのは変わらない。表面的ではない、自分たちの、揺らがないモノづくりをしなければいけないね。それには、喜んで打ちこめる、大切なひとたちに届けたい何かがあるのが前提じゃないかな。それが〝いいもの〟として伝播するかも知れない。

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矛盾がいっぱい

もとはといえは同じなのに…

寒い朝には酒かすスープ?

もうすぐ新酒のシーズンになる。

毎年、自身は呑めないのに、わざわざ、西の関・蔵出し立春朝搾りを届けてくれていた幼馴染みが他界して味わえなくなってしまってから3回目の春がくる。わたしはふつうにお酒がいただけるから、甘酒はむしろ苦手で、搾りかすより、断然甘くない液体の方がいいなぁって思うけどね、世の中は、飲む点滴といってここ数年、いくらか酒かすの消費量も上向いているらしい。YouTubeには酒粕奨励の動画がごまんとある。

そして、その反対に、ここ数年、アルコールは少量でも毒であって、百薬の長なんて嘘八百と喧伝されている。残念ながら、化学生理学的にいえば恐らくほんとうだろう。しかし、その搾りかすの方が奨励されるのは、レジスタントスターチ、アデノシン、ビタミンB群、フェルラ酸などが多く、実際、飲む点滴の喩えは嘘ではなかったというものだが、おかしいのは、酒かすにも8から10%のアルコールが含まれていて、妊婦や子どもはダメ、運転前はNGと但し書きがつく。日本酒ではなくて、味醂の搾りかす(こぼれ梅)でもそうだから、米を麹で発酵させれば、酒になるわけで、それを液体で呑めば毒、搾りかすを食せば栄養というのはいかがなものか。8%ならビールよりアルコール度は高いのに。納得がいかない。以前、赤ワインのポリフェノールがもてはやされた時期があった。フレンチパラドックスの例から、少量、食事といっしょにいただくのはいいかも知れない。しかし、今の潮流ではこれも、まゆつば扱いかも知れないがどうだろう。

その酒かすの定期摂取の効果として実感できるのが、血の巡りが良くなって温まる、整腸作用でお通じが良くなること、コレは日本酒呑みならふつうに実感していることでもある。だから、寒い日は、朝から、堂々と大吟醸の緩搾りの酒かすをホエイパウダーや生クリーム、味噌と合わせてスープにして、あるいはカカオとはちみつでいただけばいい。TMC、アボカド、ココナッツオイルなど上から垂らして、あるいは胡麻をすってトッピングしてもいい。タンパク質と優良な脂質の組み合わせは、すぐエネルギーにチャージされる朝食の理にかなっている。

声を大にして宣伝することには、いつでも矛盾がいっぱい!

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合理性とコンプライアンス

元旦のご来光

エコノミックアニマル、Japan asNo.1などといわれた頃から、効率、合理性、そして、PL法、コンプライアンスとわめき立ててグローバル化が進んだ。戦後統治下の無理やりアメリカナイズにはじまり、その後、もちまえの勤勉さと社内一丸の団結力で調子に乗った日本を陥れて、まんまと円キャリー資金運用の供給源にしたのだから、それらの語句は、盗人たちが都合良く言い訳するための下敷きだったとわかる。

鳥居の真ん中から朝日が昇る。何だかいつもより神々しくてありがたいと写メを撮る。大晦日と元旦と、日めくりカレンダーが一枚めくれただけで、物質的にはちがわないが心境が変わる。何処にも合理性などないが、日本に生まれ育ったひとたちは、似たような行動をとるし、見えない感覚を共有している。いいとか宜しくないとかではないし、よその横暴な国からとらかく言われる筋合いはない。何がコンプライアンスだ!と個人的にはいまいましく感じるが、海外相手の法人などは便宜上避けるわけにもいかないだろうから、とりあえずは、それなりの体をなしておいてください。

交通事故を起こした際、こっちが悪い自覚があっても先に謝ってはいけない、すべては訴状で片付けるのだからなんて社会に似せるために法科大学院を増やしたが、あまり機能しなくて閉鎖傾向にあるらしい。良心をベースに生きていた国の人たちにコンプライアンスも何もないだろう。もちろん、公害を起こした企業など例外はあるから、そんな時は個別に検証すればいい。一律に文言に書いたことだけでカバーできるもめごとなんてごく一部なのに、それを合理的に切り捨てて、何とか逃げ切れば平気という、美意識もなければ善悪の区別もつかない劣等で下品な稚拙ないきものと察しがつく。そんなのばかりだから世も末になる。

今宮神社の焼き餅屋さんは1,000年以上の歴史を持つ。とらやの羊羹だって数百年の間レシピはそのままで、パリでもNY.でも通用している。コンプライアンスなんてちゃんちゃらおかしい。もっと大切な守るべき指針があり、大衆に支持されたのは想像にかたくない。これからは、封印されていた、もとからのアイデンティティを思い出して大切にしようじゃないか。わかるひと、共感するひとしか注文しない、お金は払わないし、常連になんてならないのに、何処に目を向けているのか?

「コレ(日本語表記)がわかるひとだけご入店ください」と書かれた張り紙が話題になった。お客様は選んでいい。美意識を共有できるひとなら何処の誰でも宗教の別もあるなしも一切関係ない。現金のみ、でもかまわない。

宝くじすら売れない

流行り廃りは先の知らせ

招き猫左手はお金、右手はひと

もはや、宝くじも売れない時代だそう。どんどん一等賞金が大きくなって返ってリアリティに欠けるのかも知れないが、3,000円投資で300円の戻りという事実に向き合い続けるうちに、アホらしくなってしまったのだろうか。夢を買う余裕すらないのはまことに身につまされるが、冷静に考えると、交通事故や自宅浴室死と比較しても信じられないくらいの、天文学的な確率でしか当選ないのにようやく気がついたのか。日本生まれで、世界にも拡大したあの100均ショップも製造原価が高騰して成り立たなくなってきているらしい、円高デフレが問題などと喧しかった時代が嘘のようではないか。

そう、時は過ぎ時代は移り変わる。しかし、先に変わるのはひとびとの気持ちや感覚の方。モノは力づくで流行らせようとしても上手くいかないことが多い。色は3年前くらいに流行色が決定され、高級ブランドのファッションショウなどから順次取り入れられる仕組みが存在するが、例えば、市松模様や黒の裾長が流行れば不況がくる、演歌が流行れば景気が上向くなどは誰かが予測したものではない。だって、それぞれが、流行らせようとがんばって仕掛けているのだから…

先を読むのははなはだ難しい。ある小規模100均の店主は、2つあった店をひとつにして、けっこう売れていた食品系をキャンディ20種のみにし空きスペースを雑貨に変えた。石鹸は2個組で仕入れが100円を超えたが、これは泣く泣くそのままにしている。止めないで続けてと励まされることもあるらしい。何処の店でもかまわないような100均でもお客様は、肌で感じる。健気に苦心して、消費者に寄り添おうとしているのかを。だから、苦しいのをちょっとしたユーモアに変えるポップなどかれば、近親感が湧くし、さらに伝わるものがあるだろう。100円の品でさえ吟味する厳しい目に耐えられる審美眼をもっているのかが問われている。無駄なものは買わなくなっても、必要を感じた時に、まず、あの店にあるのかを確認しようと思わせる品揃えなら、デパートにもスーパーにも負けない。要するに、あなたが戦っているのはライバルでも客でもなく、自分の勤勉さや苦労に負けないバネのような精神でいられるかの方。客層に応じた感覚や気配を早期にキャッチできるのか。無視すれば後手に回る。

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